永楽屋について
屋号について
創業以前、織田信長公の御用商人として活躍し『永楽屋』の屋号と細辻の姓を拝領。その後、江戸時代初期の元和元年(1615年)に綿布商として創業。現在では手ぬぐいや風呂敷などを始めとした日本最古の綿布商として京都にて十四代、400年に渡って商いを続けております。
創業当時より伝え継がれてきました「教訓大黒舞」
現在も永楽屋の社訓として、社員給料支払明細に印字され日頃より訓じております。
永楽屋の歴史
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十四世 細辻伊兵衛
1964年生まれ。おとめ座。
株式会社永楽屋 代表取締役社長
一般財団法人 細辻伊兵衛美術館 館長
一般社団法人 日本バレエ•リュス&バレエ•スエドワ協会 代表理事
四条繁栄会商店街振興組合 理事
智恵光院檀家総代
袋中庵檀家総代
京都伝統産業青年会直前会長。
高校時代は卓球でインターハイに出場。
自動車メーカーのエンジニアを経てアパレル業界へ転身。
1985年 「Yin & Yang」ブランドプレステージショップの店長を経て、独立を果たす。
1992年 株式会社永楽屋入社。
1994年 代表取締役就任。
1999年 代表取締役社長就任。
2000年 十四世細辻伊兵衛襲名。
永楽屋初となる店舗展開をスタート。
以降、精力的に改革を行い京の老舗型SPAを確立
2012年 永楽屋初の飲食事業となる「ほそつじいへえTEAHOUSE」を祇園にオープン
2015年 永楽屋創業400年を機に、東京青山スパイラルにて自身初となる個展「14世・細辻伊兵衛手ぬぐいアート展」を開催し好評を得る
同年、京都でも個展を開催(京都髙島屋1Fゆとりうむ)
2016年 九州初開催となる個展「14世・細辻伊兵衛てぬぐいアート展」を福岡 天神イムズにて開催
2017年 14世・細辻伊兵衛てぬぐいアート『あっぱれ滝桜』展を開催
2018年 京都伝統産業青年会 会長に就任。
14世・細辻伊兵衛てぬぐいアート『寿~把~屏~風~(ス~パ~ビョ~ブ~)』を発表。
2019年 14世・細辻伊兵衛てぬぐいアート『絢爛屏風「祇園祭山鉾図」』発表
2020年 京都髙島屋1Fゆとりうむにて、世界的に活躍する具体美術協会のラストメンバー森内敬子による、長刀鉾を描いた作品をもとに制作した手ぬぐい「長刀鉾・赤」「長刀鉾・金銀」を発表。
2020年 ほそつじいへえTEAHOUSE supported by MLESNAにて
『永楽屋 14世・細辻伊兵衛×森内敬子「縷 Lu -如来に捧げた善の糸-」』と題し、具体美術協会のラストメンバー森内敬子による作品「縷Lu」など、合同展示を開催
2022年 永楽屋が所蔵する江戸・明治・大正・昭和・平成・令和6時代の手ぬぐいを展示する「細辻伊兵衛美術館」を開館。館長に就任。
2023年 日本バレエ•リュス&バレエ•スエドワ協会を設立 初代代表理事に就任
- 伊兵衛日記
- 細辻伊兵衛 Instagram
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テヌグラファー 細辻伊兵衛
- 永楽屋創業400年を機に、もっと多くの方々へ手ぬぐいの魅力を発信すべく個展をスタート
2015年 永楽屋創業400年を機に、東京青山・スパイラルにて自身初となる個展「14世・細辻伊兵衛手ぬぐいアート展」を開催し好評を得る。同年、京都でも個展を開催(京都髙島屋1Fゆとりうむ)
2016年 九州初開催となる個展「14世・細辻伊兵衛手ぬぐいアート展」を福岡天神イムズにて開催。
夏には2年目となる京都髙島屋1Fでの個展を開催し話題となる。
2017年 福岡天神イムズB2Fイムズプラザにて「あっぱれ滝桜」と題した作品を展示。
最長28.5mの2種の桜柄ガーゼ手ぬぐいを計72本、総メーター数約1,300mに及ぶ作品を館内の吹き抜けに展示
2017年京都髙島屋1Fゆとりうむにて「寿~把~屏~風~(ス~パ~ビョ~ブ~)」と題し、祇園祭関連の手ぬぐいを使用した金屏風に、それぞれ永楽通宝を模した車輪や祇園祭に関する金工を施した作品6点をゆとりうむとメインウィンドーに展示。
2018年(平成30年)7月1日~7月10日-京都髙島屋1Fゆとりうむにて
2018年版「寿~把~屏~風~(ス~パ~ビョ~ブ~)」を展示。メインウィンドーには昭和初期柄の京都の1年間の行事を描いた手ぬぐいで制作の「年中行事屏風」を展示。2019年(令和元年)7月1日~7月9日-京都髙島屋1Fゆとりうむにて
『絢爛屏風「祇園祭山鉾図」』と題した作品展示。6枚の手ぬぐいサイズのキャンバスに描いた祇園祭の風景をもとにレイアウトした手ぬぐい「絢爛屏風『祇園祭山鉾図』」を発表。2020年(令和2年)7月1日~7月9日-京都髙島屋1Fゆとりうむ
世界的に活躍してきた具体美術協会のラストメンバー森内敬子による、長刀鉾を描いた作品をもとに制作した手ぬぐい「長刀鉾・赤」「長刀鉾・金銀」を発表。2020年(令和2年)12月4日~12月13日-ほそつじいへえTEAHOUSE supported by MLESNA
『永楽屋 14世・細辻伊兵衛×森内敬子「縷 Lu -如来に捧げた善の糸-」』と題し、具体美術協会のラストメンバー森内敬子による作品「縷Lu」を中心とした展示や「縷Lu」を忠実に染色で表現した手ぬぐいなどを合同展示。
歴代 細辻伊兵衛
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一世
- 四九歳のときに主家である永楽屋から家督を受け継ぎ、永楽屋細辻伊 兵衞を名のる。肖像画がないため、三世が手紙文を代替して、掛け軸にした。一世は忠臣蔵で知られる大石内蔵助とも親しく、返礼に手紙、文机などを贈られ、家宝としていた。昭和になって「由良之助」という商品を発売したのも一世のご縁を蘇られたものである。
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二世
- 養子として細辻家を継いだ二世は、清貧であることを重んじ、華美、浮利をいましめた。その暮らしぶりを三世が「不逮録」に残している。この教えはのちの「教訓大黒舞」につながるものである。「天性聡明」な人柄で、この時代の景気の波に足をすくわれずに上手にのって、家業を成長へと導いた功績は、「細辻家中興の祖」として高く評価されている。
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三世
- 養子として家業を継ぐ。倹約を旨としながらも、風雅を好んだ三世は萬年先生とも呼ばれた。三世の人柄は、江戸中期の経済学者、海保青陵が著した『諭民談』にも描かれている。一度五〇歳で隠居するが、四世の早逝から家業に復帰した。
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四世
- 養子として継いだが、二年で突然はかなくなった。四世の業績で忘れることができないのは「教訓大黒舞」という家訓を残したことだ。家業の柱となるこの家訓は、今も永楽屋に息づいている。「一に 一るいむつまじう」(一族仲良くすること)に始まる「教訓大黒舞」は、京都の老舗の家訓として、京都の商い文化の一翼を担ってきた。
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五世
- 十世が残した記録『永楽帖』に祖先の事績が書かれているが、5世から七世までの記述はない。この間「天明の大火」(天明八年、1788年)、のちの「蛤御門の変」(元治元年、1864年)などで資料が焼失したものと思われる。永楽屋は天明の頃には京都の大富豪という評価を得ていた。
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六世
- 五世が享年四三歳で没したあと、六世が家督を継いでいる。この頃は、日本近海にロシアやイギリスの船が現れるようになる。このあと嘉永六年(1853年)にはペリーの黒船来航があり、世情が一気に幕末へと雪崩れ込む時代である。
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七世
- 七世には子供がいなかったために養子、亀太郎を二歳のときに跡継ぎとして迎え入れ、店主にふさわしい教育をし、育てようとしたが、七世は四六歳で早逝した。亀太郎はまだ幼く、一二歳であったため、成人するのを待って家督を継いでいる。この頃は、幕末から明治へと向かう日本の大変革期にあたっており、家業も大きな変動を余儀なくされた時期である。
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八世
- 八世は、東京遷都で衰退の兆しのあった京都を復興させるための事業、京都博覧会などに参画し、力を尽くした。幅広い文化人との交流があり、幕末に流行った意匠手拭などに関心のあった風俗史家江馬務と永楽屋との結びつきをつけるなど、文化面での功績が大いに評価されている。桂園派歌人、細辻昌雄として知られている。
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九世
- 家業復興のために優秀な若手の手代を抜擢し、九世を襲名させている。九世は、質素倹約を旨とし、いたって倹約家の暮らしぶりで、まさに二世を地で行く働き者であった。家訓である「教訓大黒舞」を受け継ぐ仕事振りで、明治期から昭和一五年頃までの永楽屋の繁栄の礎を築いた。二世に次いで「細辻家の中興の祖」として称される所以である。
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十世
- 十世は、旺盛な事業意欲のもち主で、家業には積極姿勢で臨んでいる。九世と同様に「教訓大黒舞」を旨とし、質素倹約につとめた。社会公共事業、慈善事業にも関心をもち、当時としてはさきがけ的な社会貢献を行っている。また画家中島荘陽、江馬務など文化人の支援も行っており、そうした支援の中から意匠手拭「京都の年中行事十二ヶ月」がつくられ人気を博した。
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十一世
- 十一世は十世の長男。家業繁栄の時代を十世の片腕となって働いた。 十世が昭和一八年に六一歳で亡くなり、三四歳の伊一が十一世を継いだ。戦争の時代は、強制疎開措置で家屋が取り壊され、木綿は国家の統制品となり、休業状態となった。戦後、家業を再開。昭和三四年(1959年)に株式会社永楽屋とし、業績の伸長を果たした。
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十二世
- 十一世の長男であり、早くから父親を助けて家業に従事していた。昭和三九年、三〇歳のときに永楽屋の家督を引き継いだ。生活欧風化の流れのなか、これまでの和装品から贈答用タオルを主力商品とすることを決断し、それに向かってまい進する。結果、業績を好調に伸ばしたが、この頃、海外ブランドタオルが参入してきて、この分野も競争が激しくなってくる。
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十三世
- 十二世の弟にあたる十三世は、兄を支えて家業に就いていたが、十二世が早逝したため、十三世を引き受けた。高度成長の時代も過ぎ、競争激化の時代にあって、仕事の新規開拓が経営の課題になっていた。そうした困難な時代を安定した経営をめざして粉骨砕身、努力した。しかし、追い打ちをかけるような天変地異が起こった。平成七年(1995年)の阪神淡路大震災である。経営はこうした異変に影響を受けざるを得ない。